ロシア ロケットペンダント アンティーク
ロシアン ロケットペンダント
《ロシアの竪琴》
ロシア 1890年頃
イオシフ・マルシャーク工房(キエフ)?
オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンド 約14K
4,2cm×1,9cm
Sold
ロココ様式のデザインですが、フレンチのロココ様式とは趣が違うところが、ロシアのジュエリーらしくて面白いです。

このペンダントは手に持った時に心地よい重さを感じると、現地からの報告が入っていますが、見た目にも重量感を感じるのは、厚い金の板を深く彫ってあるからで、ヨーロッパのジュエリーならとてもこんな難しいことはしないだろうなと思います!

左右の縁の装飾もパワフルなロココとでも言えるような、ロシアのジュエリーならではの個性を感じます!
一番下の装飾もロシア独特のエキゾチックなものですが、ロシアの伝統的な何かに由来しているのだと思います。

上部のバチカン(鎖を通す金具)にもご注目!
これもロシアらしい一手間多い仕事なんですよ♪
充分に厚さのある金の輪の中央部を彫って深い溝を彫ってあるでしょ!
こんなこともヨーロッパのジュエリーではしませんね〜。
ロシア人はヨーロッパ(特にフランスに)にコンプレックスがありますから、より難しい仕事と一手間多く掛けることで、ヨーロッパのジュエリーに負けない優れたジュエリーを作ろうとしたのだと思います。

あの天才ジュエリー・プロデューサー「ファベルジェ」の出現で、ロシアのジュエリーの意識が変わり、一挙にフランスのジュエリーをも凌ぐ優れたジュエリーが作られるようになるのです!
それは民主化が遅れ、ジュエリーの大衆化が進まなかったのが幸いしたとも言えるのです。
残念ながら1917年の革命ですべては終わってしまうのですが・・・。

もともと数が少ないロシアのジュエリーですが、特に最近は市場から姿をけしつつあります。僕が入手出来るのは特別のコネクションがあるからなのです。
最近は革命後の見る影もなくレベルの落ちたロシアのアンティークジュエリーを市場で見かけるようになっていますが、そんな物は買ってはいけない物です(笑)。

最後にこのペンダントに付いているダイヤモンドのお話を致しましょう。
ロシアのジュエリーらしい非常に上質のダイヤで見事な輝きの石のようです!
しかもラウンドブリリアンカット(円形)ではなくオーバルカットなのもロシアらしいではありませんか!♪
アンティークジュエリーに刻まれた文字

裏に彫ってある文字の美しさには心惹かれます。
まるでペンで書いたように奇麗な線には驚かされます!♪
失敗は許されない仕事ですからね〜。

《ロシア語の意味》
キエフの
ロシアの
商人の
会議が
アレクサンドル
コンスタンチノーヴィチ
グラズーノフ様へ

キエフロシア商人倶楽部(会議)がアレクサンドル・コンスタンチ ノーヴィチ・グラズーノフ氏へ何かの記念で贈ったものと思われます。キエフロシアとはロシアの
古代国家の時の名称です。この商人倶楽部歴史のある倶楽部だったのでしょう。何かの催しに音楽 家を招きそのお礼というのは十分考えられます。
(メルマガ会員のAさんが解読してくださいました)

《メルマガ会員のSさんからの教えて頂いた事》

グラズノフが勤めていたペテルブルグ音楽院の印の竪琴でしょうか。
(当時も竪琴の紋章を使っていたかは存じませんが…)
1912年と言いますと、院長をしていた頃の筈です。
もしかしたら、中央正面は勲章か何かをイメージしたのかもしれません。
最初に拝見した時から、この竪琴の形が気になっておりまして。
作成年が違うようなので、自分で作らせたのではないのなら、
音楽院のマークに似た品を見つけて求めたのかしら、と想像していました。
人から贈られたのでしたら、本当に相応しい形ですね。

そして、「キエフ・ロシア商人倶楽部(会議)」という名です。
恐らくご存じの通り、ノヴゴロドの流れのキエフ・ロシア(キエフ・ルーシ)は、
商業ルーツの建国という経緯故、元は貴族階級も商人を兼ねていました。
その為、国としても商業重視で、当然、商人の地位が高かったそうです。
ですので、帝政ロシアの時代の商人はそれを思い、
「キエフ・ロシア」というかつての名称をいただいたのかもしれませんね。

或いは、もっと飛躍して解釈するなら…。
所謂、ヴァイキング系のキエフ大公国は内部でその同族意識があり、
諸公国の結び付きは、航海を共にする商船団、に似たものだったようです。
купеческое(原形купеческий)には、
「商船」という意味もあったと存じます。
もしかしたら、本当にそんな『商船会議』という名の集いが、
古の時代にはあったのかもしれませんね。
時代が下り、それにあやかる名士の集まり等が出来たかもしれません。
完全な空想ですが、そんなことを思うと楽しいです。

本当に久し振りにロシアに触れる機会を得ました。
当時、余りなかった古代〜帝政時代の本を探し歩いたり、
意味も判らないながら、ロシア語の響きの美しさに耳を傾けた記憶が蘇ります。
すっかり忘れていた言語をもう一度勉強し直そうかしら、と思いました。
あのペンダントは、そんなきっかけを下さるご縁だったのかもしれません。
誕生日は毎年、生まれ変わる為の日付ですから。

そうでした。アレクサンドル・グラズノフですが、
バレエにお詳しい片桐様には「ライモンダ」の作曲者と申し上げるのが、
一番、伝わり易いでしょうか。

Gen
僕はバレエに詳しい訳ではありません(^^ゞ
短い期間でしたが、ジョルジュ・ドンと友人として付き合いがあったのと、マヤ・プリセツカヤの持っていたロシアの鈴蘭のブローチ(元はニコライ2世の皇后アレクサンドラが持っていた物)を扱ったりして、何となくバレー界の人たちと縁があったというだけなんです。

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ちょっと脱線ですが・・・
28年ぐらい前に出会ったロシア人の女性は、ソビエトのノーメンクラツーラ(特権階級)の父を持つ人で、外交官のルートを使ってロマノフ家にまつわる美術品を日本に運び、それらの貴重な美術品を僕が預かっていた時期がありました。
フェベルジェ始めロマノフ家御用達の有名な作家の作品を含む素晴らしいコレクションでした。
それで僕はロシアのアンティークジュエリーの魅力を知り、積極的にロシアのアンティークジュエリーを扱うようになったのです。

まだ日本では全くロシアのアンティークジュエリーは知られていない時でした。

僕はつくづくロシアには縁があると思いますね・・・。
ボレロで一世を風靡したジョルジュ・ドンは、20世紀初頭に欧米で高く賞賛されたバレー・リュスのニジンスキー(舞台で狂い死にした)の再来と言われた人でした・・・。彼の愛用のサファイヤの指輪は、今僕の指に・・・。

彼は僕が赤坂の店を手放なさなければならない状況になっていた時「Gen スマイル スマイル」と励ましてくれたものでした。
彼が元気でいたら、きっと今の僕を「スマイル スマイル」と励ましてくれたんだろうなと思います・・・。



ロシア アンティークジュエリー
竪琴 ペンダント アンティークジュエリー
ロングチェーンはロシア製ではありませんが、アンティークのハンドメイドのチェーンです。 この力強さを感じるデザインもロシアのジュエリーの特徴です!
ロシア アンティークジュエリー ロケットペンダント  

斜め 拡大
内部
ロシア ホールマーク  

《参考》


ロシア連邦最高裁は、10月1日、
ニコライ2世とその家族の名誉を回復した。

 一家は、ロシア革命さなかの1918年7月、エカテリンブルクでボリシェビキ(のちのソ連共産党)の暴徒ともいうべきメンバーにより、裁判も罪状もないままに宿泊していた隠れ家で銃殺された。

 殺害されたのは、ニコライ2世、アレクサンドラ皇后そして5人の子どもたち、すなわち長女オリガ、次女タチヤーナ、三女マリア、四女アナスターシャ、皇太子アレクセイ。

 末の皇女アナスターシアだけが生き延びとの噂もあり、「それは私です」という女性が複数申し出たため、依然、特定することはできないままになっているようだ。

 うち皇帝ら5人は、処刑されたエカテリンブルク郊外で91年に遺骨が発掘され、
98年、時のエリツィン大統領主導で歴代の皇帝が眠るサンクトペテルブルクの
ペトロパブロフスク大聖堂に移されて、埋葬された。

 三女と皇太子とみられる遺骨もその後発掘され、これまでに本人であることがほぼ確認されている。

 皇帝一家は00年にロシア正教会の聖人にも列せられている。このため、「ロシア社会の和解の象徴」とされ、「事実上の名誉回復は終えている」と冷静に受け止める市民も多い。

 一家について、最高裁判所はロマノフ王家の子孫たちの上告に対し、「根拠なしに迫害された」「政治弾圧の犠牲者」だったと判断し、名誉回復するとの裁定を下した。

 ニコライは皇太子時代、1891年4月27日、ロシアのアゾフ号で長崎に来航した。各地を訪問したあと、5月11日、琵琶湖遊覧から京都の宿舎に戻ろうと、滋賀県大津しないにさしかかったところ、警備にあたっていた津田三蔵巡査が、襲撃に遭い怪我をした(大津事件)。

 ことの重大さに、松方正義首相はもちろん、明治天皇も急遽、京都で、常磐ホテル(現在の京都ホテルオークラ)に滞在していた皇太子ニコライをお見舞いした。

               吹浦忠正(ユーラシア21研究理事長)の新・徒然草



ニコライ二世は長崎に来航した時、当時、近くの大村湾に冬の間だけ港の凍結をさけて滞在していたロシア艦隊の将校たちが、日本人の女性と結婚しているので知り、それをうらやましがったと彼の日記に書いています。
彼は日本人が好きだったらしく、日本滞在中の出来事を楽しい思いでとして書いています。そして大津事件で大怪我をした時も決して日本人を恨むようなことはなかったことも書いています。

ファベルジェも日本の工芸には興味を持っていて、根付けを250点もコレクションし、それも宝石彫刻の動物シリーズで活かしていますが、日本人が好きだったニコライ2世の影響を受けているのかも知れないなと思います。

                                Gen

※ニコライ二世の日記は日本でも出版されています。

『ドクトル・ジバゴ』(Доктор Живаго,英語:Doctor Zhivago)は、ソ連の作家ボリス・パステルナークの小説。ロシア革命の混乱に翻弄される、主人公で医師のユーリー・ジバゴと恋人ララの運命を描いた大河小説。

「ドクトル・ジバゴ」はロシア革命を批判する作品であると考えられたために本国ソ連での発表はできず、イタリアで刊行され、世界的に知られることになった。翌年にはノーベル文学賞がパステルナークに授与されることになったが、ソ連共産党が辞退を強制した。受賞すれば亡命を余儀なくされると考えたパステルナークは「母国を去ることは、死に等しい」と言い受賞を辞退した。
ソ連の共産党は「(「ドクトル・ジバゴ」は)革命が人類の進歩と幸福に必ずしも寄与しないことを証明しようとした無謀な試みである」と非難した。当時「社会主義革命の輸出」をしていたソ連政府にとっては「ロシア革命は人類史の大きな進歩である」という見解に疑問符をつけることは許しがたいことであった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




このロケットペンダントが作られた頃に近い時代のロシアの絵画





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