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No.7 |
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立体感のある綺麗なハート型に作られています。 | |||
上下の金具の部分が黒くなっているのは、パティナと言って、ゴミなどが石のように固くなったものです。これは古い年代のジュエリーの証です。 |
内部はブルーのエナメルです。1680年以降は内部が白いエナメルになります。 |
このような小さなロケットペンダントは、当時は単独で使った物ではなく、何らかのジュエリーに下げて使った物だと考えられます。
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《ルネサンス様式エナメルの技法》
特に記述がない場合は、すべてヴィクトリア&アルバート美術館所蔵です。
フランスの Toutin家が従来は黒地や青黒地に施していたエナメル細密画を白地に鮮やかに施す技法を1630年頃に開発しました。 その手法は肖像画だけでなく、色とりどりの花を描くのに適していたので、時計ケースや文字盤、その他のエナメルが描ける小物に施され、宝石の裏にも美しいエナメルの花が描かれています。 |
1630-40年頃 フランス ブロワ |
エナメル画家の多くは金細工師としても訓練を受けていました。そして、この二つの技術は密接に関係していたのです。 フランスの中心地である、ブロワ、シャトーダン、そして、パリでは、時計、ジュエリー、その他の小さな金銀製品に寓意的な肖像画がエナメルで装飾されています。 このロケットでは、擬人化された「秋」と「冬」が前面に「春」と「夏」が裏に描かれています。これはブロワかパリで作られた物と推測することができます。17世紀には、極小の油絵のような繊細な肖像を描くことを可能にしたエナメル画の新技術が現れました。 これらのエナメルの細密な肖像画はヨーロッパ大陸ではじめに流行し、イギリスでは特に1720-1760年代に流行しました。 エナメル画は細かく挽いたガラスを加熱して作成しますが、着色は金属の酸化物を地金の上に置いて行います。 色付けは何回もの段階を経る必要があり、それぞれの色によって必要な温度が異なるので、エナメル肖像画を成功させるためには温度の非常に正確なコントロールが必要です。なぜなら、焼成のたびに、ひび割れや気泡が入る危険があるからです。 |
バロック時代の絵画の表現手法
本当に絵の一部がはがれているかのようにリアルな表現がされています。
ヘイブレヒツ 静物ートロンプルイユ 1663年 蔵:カリカッソンヌ美術館 |
(※青でマークした線は合成です) 花の内部には陰影をつけてあり、幾重にもハッキリした曲線(※)を描くことによって、立体感を感じさせています。 それを曲面に施しているところが、大変興味深いところです。 二次元のエナメル画を立体的に見せる表現です。 |
1670年頃 いとも豪華なブックカバー 高さ: 97 mm, 幅: 76 mm, 厚み: 47 mm |
17世紀中頃、装飾物の模様として花を描くことが流行しました。 この様式は記録にも残っていて、1663年、ジル・レガレによる金細工の本やそれに続いた一連の出版物にこのスタイルが記述されていました。 デザイン本では花は自然な形で描かれているのですが、この装丁の表裏の花はシンメトリックに配置されています。また、葉のついた枝も整然と配置されています。 このエナメル装飾にはインパクトはあるのですが、仕事のレベルが最高というわけではなく、近くで見ると白いエナメルには気泡が入っていることがわかります。 パリの宮廷のために作られた物のような洗練に欠けていて、色も薄くなっています。 このタイプのエナメル画は、1630年に開発されるとヨーロッパ中に広がりました。 この本のカバーはフランス、オランダ、もしくは、アウグスブルグのようなドイツの中心地のいずれかで作成された可能性があります。 |
1660年頃 イタリア バジリカータ 宝石の裏にカラフルなエナメル画を施しています。表のエナメルは白と黒のみです。 |
1660年頃 イタリア バジリカータ やや斜めを向いた女性の半身を見事に表現しています。裏は平らで色彩豊かに花が描かれています。 |
1630-1660頃 西ヨーロッパ 宝石のついている表側のリボンの輪から、「裏」のカラフルなエナメル画がのぞいている。 |
1650年頃 西ヨーロッパ ご紹介中のハート・ロケットと同じ種類の花が描かれています。 |
1680年頃から、色が滲むなど物によってエナメル画のレベルが低下してきます。 1685年にルイ14世がナントの勅令を廃し、信教の自由が制限されたので、手工業を担っていたユグノー教徒の多くが国外へ逃れましたが、そのことが関係していると思われます。 スイスやイギリスなどでは、逆に、職人が入ってきて恩恵を受けました。 ちなみに、あの「天才」ピーター・カール・ファベルジェを出したロシアのファベルジェ家もユグノー教徒でした。
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1690年頃 イギリス 「スライド」の裏 |